福沢諭吉が訪米から帰国の途に就いたのは1867年(慶応3年)の夏である。どうやら、あちらの食事にうんざりしていたらしい
福沢諭吉是在1867年(慶応3年)的夏天结束了对美国的访问而踏上回国之路的。他似乎厌倦了美国的餐饮。
下船して食べたいものを日記帳に列挙している。「うしほ、あらい」(スズキ、クロダイ)、「に肴(ざかな)」(タイ)に始まり、「飯」で終わる。魚料理が恋しかったようである 下船后在日记本上列了想吃的东西。从“盐水鱼、冷水生鱼片(鲈鱼、黑鲷)”、“炖鱼(加级鱼)”开始,最后一道是“米饭”。好象特别眷念海鲜料理。
幕末の歌人、橘曙覧(あけみ)は「たのしみは/まれに魚(うお)煮て/児等(こら)みなが/うましうましと/いひて食ふ時」と詠んだ。煮魚に子供のころの記憶が刻まれている方は多かろう。福沢の魚恋しさにもあるいは、記憶の疼(うず)きが交じっていたかも知れない 幕府末期的和歌作家橘曙覧写道:“偶有炖鱼摆上桌/孩子们吃得津津有味/快乐莫过于此”。想必有很多人对小时侯的炖鱼记忆犹深吧。福沢对鱼的眷念,或许还夹杂着痛苦的回忆。
時は移り、最新の水産白書が日本人の「魚離れ」に警鐘を鳴らした。調理が面倒、子供が好まない、などの理由から消費が年々減少していると、数字を挙げて指摘している 时过境迁,最新的水产白皮书给日本人的“远离鱼类”敲响了警钟。报告书中通过列举数字为我们指出,以烹制麻烦、孩子不喜欢吃等为理由,海鲜消费正逐年减少。
中国の魚の消費量が急増するなかで日本人の「魚離れ」はいつの日か、水産資源の「日本離れ」に行き着くだろう。いま現在の食卓が子々孫々の食卓にも影を落とすとなれば、「食卓も世に連れ…」と涼しい顔をしてはいられない 在中国的海鲜消费量急速增加的进程中,日本人的“远离鱼类”总有一天会步入水产资源“远离日本”的困境吧。倘若现在的饭桌将对子孙后代的饭桌产生影响,那就再也不能满不在乎地认为“饭桌随时代而异”了。
人間くさい記述で知られる三省堂の「新明解国語辞典」には、例えば近海魚「おこぜ」の項に、「ぶかっこうな頭をしているが、うまい」と説明がある。魚はうまいぞ。辞書にならい、まずは魚好きが声を大にしてその味を語るのもいいだろう。 以人情味的描述而著称的三省堂《新明解国語词典》中,譬如关于浅海鱼“虎头鱼”一项,有这样解释:“长着一个丑陋的脑袋瓜,但味道鲜美”。海鲜非常好吃呢!效仿词典的做法,喜欢吃鱼的人姑且大声地把海鲜的美味说出来,不也很好嘛!