心魅かれる女性にあうと、「この人は何歳だろうか」と考えてしまう自分に気がつく。なぜ年齢に関心を持つのだろうか。女もすてきな男を見たときは、歳をしりたがるのだろうか。
他人と関係するには、自分と相手との年齢の距離を測っておいたほうが都合がいいのだろうか。結婚したいとか、養子にとりたいと思う場合には、年齢は多少考慮の余地があるかもしれない。ビジネスの場合は、とくに日本ではまだ目上?目下という序列の感覚が残っているから、①そういう配慮が必要かもしれない。
けれども、単に好きになった相手の年齢がどうしてひつようなのだろうか。その人がそこにいる、というだけでは、こころが満たされない。人間は、その来歴にかかわる情報が伴なって、はじめて完全な人間と認められるのだろうか。そこが他の動物と違うところなのか、あるいは、ぼくたちが②ゆがんだ文化のなかにいるのか。
先日、東京で一人の中年男性が病死した。五年間いっしょに生活していた女性が、死亡届を出そうとしたら、彼の戸籍抄本も身分証明書も偽物だったという。夫はいったい誰だったのだろうかという疑問が彼女の心を揺り動かす。
決して彼にだまされたとは思わないし、ともに過ごした月日に悔いはないが、それでも夫の正体を突き止めたいという気持ちは強い。出身、経歴、資格、そして年齢と言う情報を抜きにしては、アイデンテテが成り立たないのであろう。
人を見るとすぐ年齢を推測すると言う習慣は、日本の社会にかぎらないが、年齢によって行動様式が規制される文化のなかで育った意識だろうか、「年相応」という考え方は、とくに日本において強いようである。
ぼくたちは、人にあったときに、相手が何歳ぐらいだろうかという見当をつける。そして、その見当があたっているかどうかを確かめたい誘惑にかられる。?若い」とか?老けている」という評価は、戸籍の上の年齢を知った上でなければ下せない。つまり、③)な印象なのである。
日本では、成人してしまえば、それから年を取ることは(a)」であり、それはもう(b)を意味している。小さな字が見えなくなり、すぐつかれるようになり、記憶力も衰えてくる。(a)のイメージはすべてマイナスである。
けれども、最近の研究によると、戸籍上の「暦年年齢」は、実際に仕事をする能力とはあまり関係がないのだそうである。そこで、アメリカでは④「機能年齢」という新しい概念が生まれた。主として労働市場で使われているようだが、これは職務遂行能力を測って決められる年齢なのだ。
(⑤)だから、暦年を基礎とする定年制は、年齢による差別だとして、アメリカでは禁じられるようになったという。日本人も、この十五年間のあいだに、機能年齢がほぼ十歳若返ったようだ。
無論機能年齢が暦年年齢より若い人ばかりとはかぎらない。四十歳でも能力は六十歳なみに落ちているという人もいる。だから、暦年年齢で割り切ると不公平になるのである。
注1序列:身分や年齢を一定の基準で並べた順序
注2来歴:物や人の今までの歴史
注3戸籍:家族の名前、生年月日などを書いた公式の文書
注4抄本:元の書類から一部を写した書類
注5遂行:(仕事を)最後まですること