ここは、地獄でございます。1人の男が、お釈迦様が気まぐれにお垂らしになった蜘蛛の糸を伝って、極楽へ上がろうとしておりました。しかし、極楽への道は長く、昇れども昇れども一向に辿り着きません。業を煮やした男は、極楽へ向かって大声で叫びました。
「おうい、お釈迦様。俺はなあ。地獄では一端の人気者よ。俺が一声かければ、票は思いのままよ。」
お釈迦様は、これは聞き捨てならぬと思われました。実は、極楽では次期首長選挙が間近だったのであります。お釈迦様の政敵は、観音様でした。観音様は、虎視眈々とお釈迦様の地位を狙っておりました。
極楽界の首長選挙は、地獄罪人の票も加えられることになっておりました。民主主義が貫かれていたのです。地獄の票は6割を占めていましたから、仏様たちは、常に地獄の世相を意識しておられました。どちらかというと、厳しいお釈迦様より、やさしいお顔立ちの観音様の方が罪人には人気がございまして、今回の選挙では、逆転もありうると、下馬評が立っていたのでございます。
観音様は、お釈迦様の目を盗んでは、蓮の池から蜘蛛の糸を何本も垂らし、多くの罪人どもを助けたこと度々でありました。が、そのほとんどは、極楽でも、天女にセクハラをするは、地蔵様を脅して金をせしめるはで、お釈迦様のお怒りに触れるのでありました。それで、お釈迦様は忠臣の部下である孫悟空に命じて、蓮池に突き落とさせ、地獄へお戻しになるのでございました。三つ子の魂百までということでありましょうか。
さて、男の話に興味津々となられたお釈迦様はこのように言われました。
「おお、そうか。では、お前の脱出に手を貸せば、地獄の票の大半はわたしのものになると言うのじゃな。」
「そうだ。その通りだ。」
それをお聞きになられたお釈迦様は、さっそく自らの手で蜘蛛の糸を手繰り寄せ始められました。その速いこと速いこと、男はみるみる蓮の池から上がってまいりました。
ところが、男は池の淵に上がるが早いか、こともあろうに、お釈迦様の足をひっぱり、池に引きずり落としたのであります。
「あああ。」
お釈迦様の悲鳴は、人間界にも轟き、いくつかの火山が大爆発を起こすくらいの物凄さでありました。
お釈迦様はまっさかさまに地獄へ向かって落ちられました。その形相といったら例えようがありません。目玉を大きく見開かれ、口を大きくへの字に開けられ、まるで、阿修羅のようなお顔をなされたまま、落下されていったのでございます。地獄の罪人たちは、その様子を固唾を飲んで見守っておりました。
危ないところでした。キントン雲が助けに来なかったら、どうなっていたか分かりませんでした。孫悟空に突き落とされた男とすれ違うようにして、お釈迦様は、極楽へお戻りになったのでありました。
この事件の後、地獄では、お釈迦様の人気が高まっておりました。
「おい、見たか。お釈迦様の顔をよ。」
「見た見た。鬼のような顔をしちょったのう。」
「お釈迦様も、俺達と変らんな。」
「誰でも、苦しいときはあんな顔になるもんだ。」
罪人たちは、お釈迦様に、すっかり親近感を覚えたのであります。
「これでどうやら、続投は確実になったようじゃ。」
お釈迦様は、蓮の花を手でちぎりながら、ちょっぴり苦笑いをされておられました。梅雨を思わせるような雨が、蓮池に幾つもの小さな輪を作り始めたところでした。その上に蓮の白い花びらがひらひらといつまでも落ちていたのでございます。